「くだんのはは」− 小松左京氏の死を悼む

小松左京氏の逝去の報を聞いて、真っ先に思い出した作品は『くだんのはは』であった。短編集「戦争はなかった」に載っている。終戦末期の時代を背景にした怖い作品で、私の記憶の一番古い部分がやはり戦争末期なので、身につまされて読んだ記憶がある。

 一昨年の8月14日に九段の靖国神社近くの整形外科病院で手術をしたが、翌15日の終戦記念日に、その靖国神社付を巡る街宣車のスピーカー音などをベッドで手術直後の身を横たえながらかすかに聞いていたことを思い出す。『くだんのはは』は「件の母」と「九段の母」にかけたタイトルでもあった。

 小松左京では、当然ながら「日本沈没」が東日本大震災の後とあって、最も話題となっている。しかし、筒井康隆と同じく、短編にこそ作家としての真骨頂があったと思う。作家としては最早古いと思われているかも知れないが、今いくつか読み返して、様々なアクチュアルなイシューに真正面から立ち向かっている堂々たる執筆態度に感銘した。そして何より読んでとびきり面白く、また知的興奮をかきたてて止まない森羅万象にわたる博識ぶりにもただ唖然とすることしばしばであった。

 小松左京とはそも何者か。それは、「戦争はなかった」の新潮文庫版の解説で、田辺聖子氏がいみじくも喝破しているように<極めてすぐれた「歴史家」>なのである。そう理解すると氏のこれでもかという程の八面六臂の活躍ぶり、作品に見るあらゆる分野の事象についての驚くべき博覧強記ぶりがすとんと胸に落ちる。

 本棚にある小松左京氏の本を引っ張り出してみた。氏の膨大な著作の本のごく一部でしかないが。
「戦争はなかった」「アメリカの壁」「地球になった男」「本邦東西朝縁起覚書」「骨」「おしゃべりな訪問者」 そして「日本沈没」「首都消失」。

『くだんのはは』を改めて読み返した。間もなく終戦記念日を迎えようという66年前と同じ暑い夏の日に遠い日の戦争を思い返すことは、今に生かされていることを自覚している日本人にとって、欠かすことのできない感謝と痛恨の儀礼なのかも知れない。

 件(くだん)は元々牛の体と人間の顔の妖怪で、牛から生まれるとされているが、小松氏の作品では、女の子の体付きをして牛の頭を持った怪物となっていて、この作品の怪物は人間から生まれるようだ。伝承では、生まれて数日で死ぬが、その間に重大な予言をするという。中学三年の主人公の目を通して見た戦争末期の終末的な状況と人びとの不安な心理が「件」の存在と絡み合ってサスペンスを盛り上げ、短い物語ながら一読忘れ得ない悲しくも不気味なな印象が残る。

 文学作品に登場する「件(くだん)」としては、小松氏の作品以外では、内田百間氏の「冥途」という最初の作品集のなかに文字どおり『件』という短編がある。主人公自身が「件」であり、その予言を聞こうと期待する群衆に追い回される話であるが、百間一流の夢幻のような印象の作品である。(ひゃっけん、の”けん”は、門構えに月であるが、漢字変換が不可なので”間”とした)

 小松氏の「おしゃべりな訪問者」はタイムマシンを駆って、歴史上の様々な人物と対話するという、奇想天外な設定の物語である。なかでも面白かったのは、弘安の役の直前、1281年の1月に大元帝国の首都「燕京(北京)」において、日本遠征軍の高麗軍の司令官である金方慶(キム・バンギョン)と行った対話である。金方慶将軍、時に70歳、歴戦を潜り抜け、政治的辛酸を舐め尽くした、いかにも秋霜烈日といった感じと小国高麗の安危を一身に担う威厳を備えた人物である。また、金将軍麾下の高麗軍は二度にわたる元寇で、壱岐対馬で無防備の一般島民をほぼ虐殺し尽くすなど徹底した蛮行に及んでいる。金方慶は、まさしくリアリズムの権化のような、とても一筋縄でいく相手ではない。

 対話を通じて金方慶が披歴する十三世紀の日本の国情と日本の人士に対する洞察は驚くほど正鵠を射ており、そこに小松氏の<歴史家>としての真骨頂を見ることができる。
 金方慶が「・・・への義は義としておいていい。しかし東海中の島嶼によるとは言え、一国を保つための計略はまた別事、親交を一方のみに限り、言を一方よりのみ聞き、他方を見ることさえなく頭からしりぞけ、大勢を比較勘案して方途をさぐる事なくんば、すなわち国を保つことあやうからん。」と言うのに対し、
 小松は「何しろ日本は、長年海壁に閉ざされて、『自然鎖国』の傾向がつよく、ほとんど一小国としての『外交』の虚実をふるう必要なしに、のほほんと暮らして来ましたから、どうしたって政治も夜郎自大になりますし、外との交流は一方的にこちらから出て行って勝手なふるまいをするか、一方的に閉じるか、さもなくば危機にのぞんでも、己を知らぬとんだはね上がりの、外の世界に通用しない滑稽きわまる観念論が国内世論の大勢を占め、・・・」と答える。

 政治の夜郎自大と国民世論のひとりよがりの滑稽きわまる観念論は、日本人と日本国家にとって今に至るまで綿々と続く救い難い宿痾なのである。外交のポリティクスと国の安全保障に対する感覚の欠落した今の日本の政治の現状を、金方慶であれば何と見るであろう。