「闇先案内人」大沢在昌著(文藝春秋、H.13.9.15)−これもゴミか?

ギャビン・ライアルの「深夜プラス1」に似た設定。お定まりの登場人物とお定まりの展開。警察、ヤクザ、三国人、「夜逃げ屋本舗」や「トランスポーター」を思わせる職業の主人公。(もっとも、後者が日本で上映されたのは平成15年だから、この大沢作品のアイデアが先か、偉い!)
 前回の東野圭吾に続いての気楽な読書。いわば、時間の無駄、それも壮大な時間の無駄。
 登場人物の饒舌さに驚く。それもヤクザの本条に至るまで、男の美学としての生きる覚悟が、緊迫した事態に直面した場面で延々と語られる。実にいさぎよく、格好いい。そして説教臭い。これは、お手本である北方謙三のハードボイルドの主人公の生き様を嚆矢とする。北方謙三も偉い!
 警察組織の情報の多さは、この手の作家の常備情報である。多分、情報を提供するスタッフ、協力者を多く抱えているのだろう。ただし、警察組織の内幕や北朝鮮の公安組織(在日組織を含め)の情報も、ほとんど読者の想定の範囲内である。

 この作品が出版されたのは平成13年、北方謙三の(”その時代の感覚では”という条件付きでの)最高傑作「檻」が昭和58年に発表されてから18年経っている。大沢作品には国際情勢や政府や警察内部の情報がてんこもりであるが、作品のスタイルは似ている。極限状況においても男を貫こうとする主人公の姿勢を売りにしている点はシャム双生児のようだ。ただ北方作品の主人公の方が諦念が滲み出てストイックであり、物語も引き締まって無駄がない。質も高い。ただ、北方ハードボイルド作品も「檻」一作で十分だった。「檻」が先駆的であったため、他の作品がみな亜流に見えてしまう。
 北方も大沢も、あと船戸与一逢坂剛も同じ頃スタートした作家たちで、みな腕っこきだ。敢えて言うならば船戸を最も評価するが、これは好みの問題に過ぎない。作家としての資質では大沢がやや凡庸で、盛りだくさんの情報で作品をもたせているという感じだ。

 書きつつ思うのだが、私は段々小説が嫌いになってきているようだ。嫌いというよりは、一種の小説不感症に罹ったと言ってよい。最近、雨後の筍のように続々と書店の店頭を賑わす日本の無数のエンターテインメント作品(警察・謎解きなど広汎なミステリー・ジャンル、ハードボイルド、企業、恋愛、ホラー、時代物etc)に対して特にそうだ。−それらを出版社や批評家がしゃかりきになって宣伝・賞讃に相務めているが、ほとんどゴミばかりだ−というのがわが究極の妄説である。
 小説を読んだ感想が無茶・無理解になってしまうのはそのせいだろうか。もっとも、道元も教えているではないか・・・。
「文筆詩歌等、其詮なき也。捨べき道理、左右に及ばず。」正法眼蔵随聞記)