「容疑者Xの献身」(東野圭吾著、文藝春秋'05.8.30)−絵空事!

世評の高いこのミステリーを読んで、先ず感じたのが、”絵空事”だ、ということであった。
 東野作品では、今まで「白夜行」1冊を読んだだけであり、もともとあまり好みの作家ではなかった。
(証文の出し遅れ感を厭わず)今頃になって手に取ったのは、職場の同僚の賞賛の言葉を聞いたことと、文春文庫に挟み込まれている新刊案内で、「エドガー賞」の最優秀長編部門候補になったという記事を読んだからだ。冗談だろう?
(この新刊案内は、この作品のトリックを解くキーとなっているぐ<P≠NP予想>と同じ2000年のクレイ数学研究所の”ミレニアム懸賞問題”の一つ、<ポアンカレ予想>を解いたソ連の天才数学者ペレルマンの評伝である「完全なる証明」に挟み込まれていたのも奇遇である。)

 私の価値観では、この作品は、いわゆる”小説”とは言えないが(まあ、よくできた推理パズルとでもいおうか)、仮にこれが小説だとすれば、その視点から、以下のような評価を下さざるをえない。
(なお、この作品は、当時トリックなどをめぐって様々な議論がかまびすしかったと仄聞しているが、作品自体に興味がなかったので、今でもその議論の中身を知らないままにこれ書いている。)

 先ず、テーマ全体から時代感覚が欠如している、ありふれた動機によるありふれた殺人事件だ。テレビ・ドラマの「相棒」の方がよほど時代性を感じるし、ストーリーも手が込んでいる。また、登場人物がみなステロタイプで、人物表現に厚みとリアリティがなく、作者のストーリー組み立てに都合のよいチェスの駒のように動かされているだけだ。(湯川が登場する場面が、チェスで始まるのも何かの暗合か。)
 主人公の二人、石神哲哉とガレリオ探偵湯川学は東大を思わせる大学の理学部出身の天才的頭脳の持ち主という設定なのだが、天才性が読者に少しも伝わってこない。天才性が”論理的思考”ということに集約されている点では、”天才性”というよりは”秀才性”とでも言った方が正しいだろう。
 また、石神の行為の唯一の大きな動機が”純愛”というのものけ反るし、最後に石神が号泣するというのも、それまで理解してきた石神の人間像からは理解しがたく、とってつけたようで違和感がある。そこに至る石神の感情の動きや心理状態が十分に掘り下げられておらず、ありきたりで納得できない。動機の純粋性と無償行為の気高さという点では横山秀夫の「半落ち」と共通し、絵空事、きれい事で感動的という点でリアリティを欠き、その結果作品を薄っぺらな感じにしている。
 ちなみに、無償の奉仕ということで人を感動させる人間像を描くことでは、山本周五郎の右に出る作家はいない。例えば、「日々平安」の中の作品<水戸梅譜>を見よ。

 <P≠NP予想>の扱いも、都合よく換骨奪胎されている。作品の中では「自分で答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確認するのとでは、どちらが簡単か。あるいはその難しさの度合いはどの程度か」として石塚の行動を解く鍵として提示されているが、この作品では<P≠NP>問題が十分咀嚼されておらず、人の思考力の問題にすり替えられたりしていて、本来の<P≠NP予想>問題からずれている。この問題を以下に少し整理してみる。
 先ず ”P=決定性チューリングマシンにおいて多項式時間で判定可能”な問題は、同時に”NP=多項式時間で検証可能”であることは既に証明されている。<P⊆NP>
 この問題を難問にしているのは、PがNPの真部分集合であるかが明確でないことにある。<P≠NP予想>はまだ証明されていない。計算機科学者のほとんどは、P≠NPの方に賭けているといわれる。(中村亨「数学21世紀の7大難問」講談社ブルーバックス
 中村氏の前掲書でわかりやすい喩え話が紹介されている。<「われわれが解決したい問題のほとんどはNPに含まれているが、解ける問題はPに含まれている」だから、PとNPが違うのと等しいのでは、われわれの未来が一変する可能性がある。その点の白黒をつけることが、ミレニアム懸賞問題になったのだ。>
 もともと、この問題はコンピューター(チューリングマシン)科学の未解決問題、計算量理論問題であり、必ずしも人間の認識能力や判断力を問うているものではないと思うが・・・。

 余談だが、今読んでいるナシーム・ニコラス・タレブの「まぐれ」(望月衛訳、ダイヤモンド社、'08.1.31)の中に次のような文章があって、自らを顧みて、思わず吹き出してしまった。
”文系のインテリは頭の中がぼんやりしているので、でたらめにだまされてしまう。”(98頁)