郷原信郎「組織の思考が止まるとき」(毎日新聞社、‘11年2月)で真の“コンプライアンス”を学ぶ

著者は、現在の日本における<コンプライアンス>問題の第一人者であり、この書物は今のところ郷原プライアンス論の集大成と言ってもよいであろう。
 この書物に一貫しているコンセプトは、従来のコンプライアンスの考え方の転換である。著者は、単に<コンプライアンス法令遵守>と捉えられがちであった従来の考え方は誤りと断じた上で、<コンプライアンス>の在り方を、「法令遵守」から「社会の要請への適応」と変換すべきとして、あらゆる組織の在り方を根本的に問い直そうと試みている。

 こうした論点から、具体的には、「今回の検察不祥事(郵便不正事件)の分析・検討を起点として『社会の要請に応えること』の意味を問い直してみよう」とする。
 著者の考えの基本には、「法令と社会や経済の実態が乖離している日本社会においては、その歪みが、企業の経済活動や組織の活動にも大きな影響を及ぼしている。」という認識がある。
 企業等の組織が社会から不当な批判・非難を受けて危機的な事態に追い込まれた場合、社会からの信頼の失墜と損失を最小限に抑えるための活動、即ち<クライシシマネジメント>のためには、法的責任の観点から考えるのではなく、社会の要請に応えるという意味で社会的責任を考えることが必要と述べる。

 著者の郷原信郎氏は、23年間の検察官生活を送ってきたにも関わらず、官僚組織の中でもとりわけヒエラルキーの強固な検察という組織の論理に埋没することなく、組織の現場の検証を通して逆に<組織の在り方>について鋭く問いかけを続けてきた人物である。中でも<コンプライアンス>問題の権威として日本の企業(放送メディア、医療・薬品、証券、食品、自動車など)、官庁(中でも検察)の危機(クライシス)を採り上げ、それぞれの組織のクライシスマネジメントの失敗例を分析・検証する。

 本書の中で再三言及される2007年に発生した「不二家事件」には、著者が「不二家信頼回復対策会議」の議長を務めたこともあり、クライシスマネジメント失敗の実態が生々しく語られ、興味深い。
 また2010年におきたトヨタプリウスのリコール問題で、事態紛糾を招く方向に導いた当時の前原国交大臣の発言(「問題かどうかは使う側が決めることだ。」)を「日本を代表するメーカーに対して不当な批判を煽るような前原大臣の発言は極めて不適切である」と批判する。

 とかく短絡的で見栄えのいい発言をするくせのあるこの思慮の浅い危なっかしい政治家を、読売新聞などの大マスコミがとかく持ちあげる傾向にあるのは理解困難である。今度の野田政権では政調会長に就任したが、今までニセメール事件や八ッ場ダム問題やJALの処理を巡り幼児的判断から失態を重ね、党代表としても国交大臣としても外務大臣としても何ひとつ実績はなく、職務すら満足に全うできていない政治家が、マスコミ(読売新聞)の民主党代表選挙直前の世論調査で断トツ一番人気になっている結果を見ると、日本人の寛容さと忘れやすさにはつくづく感嘆させられる。また、こんな時期に分かり切っている世論調査を行う新聞社の意図も理解の外である。

不二家事件」にしろ「トヨタ・プリウス事件」にしろ、事件を興味本位に取り上げる正義の味方を僭称する恣意的な大マスコミの誤った報道姿勢が絶えず世論をミスリードするのは嘆かわしい。とくに酷かったのは「不二家事件」で証言ビデオの捏造さえ疑われる<みのもんた朝ズバッ!>の大誤報である。間違いと分かっても屁理屈をつけて誤りを認めず、恬として恥じることのない報道番組の姿勢には怖気をふるってしまう。

 勿論、著者が最も力を入れて批判・検証しているのは検察組織についてである。この問題に対する著者の分析と問い直しの提案は実に明快である。
 先ず「従来の検察では『検察官個人の独立性』と『組織としての一体性』とが結合することによって『組織としての独立性』の枠組みが維持されること自体が組織の目的とされてきた。」と現状分析をし、しかし今回の不祥事(大阪地検特捜部による郵便不正事件への対応)で長年維持してきた社会の信頼が損なわれ、「従来のような『枠組み』中心の考え方を維持することは、もはや困難になった」と断じる。

 元来「独立性の枠組み」が維持されるのは「殺人、強盗、放火等の刑事犯のように犯罪性、処罰の必要性が明白で、社会的価値判断や政策的要素が求められる余地がほとんどない領域である。」と続け、
「経済事犯、政治資金規正法違反のように、社会実態、経済実態と密接に関連し、その実態についての理解と社会的価値判断が求められる場合には、『検察の判断の独立性』の枠組みだけでは適切な判断を行えるとは限らない。」と述べ、「検察が、社会の要請に応える組織として再生するためには、従来のような『独立性の枠組み』を絶対視する考え方から脱却し、一定の範囲で、社会に開かれた判断をすること、つまり『独立性の相対化』を進めていくことが不可欠」と結論付ける。
 その上で「法務大臣の指揮権に基づく法務省の検察の捜査・処分への介入の必要性は多くなっている。」と大胆な提言を行っている。そのためには「これまで検察の『属国』のような位置づけであった法務省の人事・組織等についても抜本的な改革が必要」と法務省組織の体制整備にまで言及している。

 著者は、最後の章を割いて、「司法が社会内の問題解決の中心的手段になってこなかった日本の社会においては、法令を単純に『遵守』するだけのコンプライアンスは多くの弊害をもたらす」として、「思考が止まった組織」から「思考する組織」に生まれ変わるための三つのルールの創造、「ルールを作る」・「ルールを活かす」・「ルールを改める」ということを提案している。
 そして「ルールを作る」ということがうまくいかなかった例として島根原発の点検不備問題を採り上げている。(この書の出版は’11年2月で、東日本大震災の直前であることに注目!)

 しかし、コンプライアンスを「法令遵守」の呪縛から解き、転換させるためには、社会の大勢がこれを了とするコンセンサスが必要であろう。また、この日本の社会に張りめぐらされた無数の既得権を統治する官僚組織が、その統治の根幹を「法令遵守」におき、その官僚組織のテリトリ―内にある企業組織に「法令遵守」を強いている現状では、それを改めるのは絶望的に困難なことのように思える。官僚組織の正義は、著者が再三指摘し批判しているように、社会の要請に応えることではなくて組織維持にあるのだから。