「精神科医が狂気をつくる」岩波 明著(新潮社、'11.6.15)を読み込む

 
著者は、東大医学部卒の医学博士。都立松沢病院や東大医学部助教授などを経て、現在は昭和大学病院精神科准教授である。
 岩波氏の著作は、「狂気という隣人」(H.16.8)及び「狂気の偽装」(H.18.4)を読んだことがある。いずれも快刀乱麻を断つような小気味よさと、一方分析の明快さに伴う多少のあざとさも感じたことを記憶している。
 私は8年以上にわたり精神科病院に勤務していて、事務職ではあるが、日常的に医師や薬剤師、看護師、そして多数の患者と接していて、精神医学は全くほかの世界のことではない。しかし、医療の現場に直接携わっているわけではないので、知見は所詮素人の域を出ない。従って、この本について医療的立場からの評価は行えない。評価するために依拠するのは、著作の論理の整合性や自分の経験から得たもの及び世間一般の常識である。
 では、本書の内容を章を追って整理してみる。少し長くなるが、この本のポイントとなる事項をスライドショーのように順送りで見ることで、現在の日本の精神医療が置かれている状況が俯瞰できると思うからだ。これはまあ、私の勉強用のサブノートみたいなものである。なお、赤字部分は私のコメントである。
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はじめに
・現在の精神科診療における治療法の基本は、他の診療科と同様に薬物療法である。
・医療行為や医薬品に関するいわれなき不信感が、根拠のないナチュラル志向や代替医療へ向かわせる。
・副作用に対する過剰ともいえるマスコミの反応は問題である。2005年ころから抗うつ薬に対するジャーナリズムのパッシングが相次いだ。NHKにおいても大々的に抗うつ薬批判の番組を放映された。抗うつ薬の重大な副作用としてはじめに指摘されたのが、抗うつ薬と自殺企図との関連性である。加えて、抗うつ薬は攻撃性や衝動性を増し、暴力的な犯罪のきっかけになっているという記事も面白半分に記載された。これらは、全く裏付けのない盲説である。

 ‘99年4月20日に起きた「コロンバイン高校銃乱射事件」の犯人の少年、エリック・ハリスが大量のソルベイ社製のマレイン酸フルボキサミン成分の「ルボックス」というSSRIを大量に服用していたことが分かっている。裁判ではルボックスの服用と事件との因果関係は証明されなかった。しかし裁判の過程でルボックスの副作用に対する疑念が広がった。
 ‘01年6月8日に起きた附属池田小学校事件の犯人の宅間守SSRIの「パキシル」を服用していたと言われている。抗うつ薬SSRI服用が事件を引き起こした原因かどうかは疑わしいが、世間を騒がしたこのような事件がマスコミ報道の論調に影響しているのかも知れない。
(なお、マレイン酸フルボキサミン成分のSSRIは、日本では現在、アステラス製薬から「ルボックス」名、明治製菓から「デプロメール」名で発売されている。)

第1章 食事療法というペテン
・食事療法が精神疾患に有効であるというのは盲信で、健康食品やサプリを売りつけるための方便で偽りに満ちたものである。
・ほとんどの精神疾患のメカニズムが明らかになっていない以上、信頼できる食事療法など存在するはずがない。
・食事療法の中には、体内でセロトニンに変換されるトリプトファンという物質を含む食品を薦める医師がいる。セロトニンは代表的な脳内の神経伝達物質で、以前からセロトニンの欠乏によってうつ病が発症するという「仮説」がある。
・しかし、うつ病に関する「セロトニン欠乏説」は医学的に実証されていない。いまだに、「仮説」止まりのものである。
・同様に、統合失調症も、長らく神経伝達物質の一つであるドパミンが過剰であると指摘されてきた。しかしこの「ドパミン仮説」はこれまでの研究において証明されていない。
セロトニンうつ病と全く無関係というわけではない。セロトニンうつ病において、その病的なプロセスと何らかの関係を持っているらしいことは推測されている。その根拠としてあげられるのは、うつ病の治療薬の多くは、脳内セロトニンの濃度を高める作用を持っている点である。
 ここの論証は少し理解が難しい。治療薬の作用によって病気の原因を探るというのは論理が逆転しているような気がするが、しかし、理化学研究所の加藤忠文氏は、うつ病の場合は、原因がわからない中で、まず、治療薬法や薬が発見されてきた、と述べている。「うつ病脳科学」(幻冬舎新書、09.9)
 加藤氏はさらに、「現在うつ病に用いられている薬は、『他の目的で投与された患者さんの、別の部分が良くなった』あるいは『誤った理論に基づいて用いられたのではあるが、結果的に良くなった』という具合に、”偶然に”効果が発見されたものばかりなのである」(同書)と述べている。従って、岩波氏の記述は論理矛盾ではない。

・その代表的な薬物が、現在の抗うつ薬の主流であるSSRI選択的セロトニン再取り込み阻害薬)である。

第2章 フロイトの大罪
精神疾患における対話(精神療法)の有効性は、治療者と親密で密接な関係を持つことによるプラセボ効果(薬効のない偽薬によって症状の改善がみられる現象)に由来している。
・このような意味において、精神療法は他の代替医療と同一である。根拠のない幻想によって成立しているものとも言える。
・対話のマイナス面―精神療法には、長い時間をかけて面接を繰り返す中で治療者と患者の間に予期しない不明瞭な「関係」ができあがることがある。それが患者の精神をじわりと蝕んでいく。このような感情的な関係を「転移」と呼ぶ。精神療法とは新たに転移を形成する作業であり、患者は元来の悩みに加えて、治療者との転移というやっかいな問題を抱えてしまうことがしばしばある。
(「転移」は通常の外来診察においても起きる現象である。その場合、治療者が必要以上に患者を抱え込んでしまいがちになる。) 
・精神療法には多くの流儀があるが、大部分はフロイト以来の「精神分析」をベースにしている。
フロイトはヒトの行動における原理として、「性愛」を唯一第一のものと定義した。しかしヒトというシステムはそれほど単純なものだろうか。
・虐待など過去の家族関係から因果関係を導きだす精神分析による「トラウマ理論」は、誤ったロジックである。
フロイトのこの性愛理論は単なる「理論」に過ぎない。これは片寄った考え方であることは明白である。それにもかかわらず、誤った理論と「プラセボ効果」を主要な原理とした「治療法」は、現在にいたるまで一世紀以上も生き延びている。この現象は、一種の「医学におけるトリック」と言えるかも知れない。

 まあ、フロイト精神分析への筆者のやや一方的過ぎる評価は別にして、文化人類学的論文は読んでいて面白い。「モーセ一神教」などは多少眉に唾をつけて読んだが、でも面白かった。他に「トーテムとタブー」など。もともとのフロイト理論と現在行われている精神療法が全く同一の根拠に立っているとは思えないが、仮に精神分析が過去の遺物としての治療法としても、フロイトの文化論は一般教養の文献として、これからも読み継がれていくに違いない。

第3章 薬物療法のウソ
・かつての精神分裂病統合失調症と名称が変わったことにより、病気そのものが軽くなったような印象を与える。これは全くの錯覚で、精神医学による「ウソ」の一つである。
・この疾患の本質は「失調」というよりは精神現象の「解体」あるいは「荒廃」であり、それを防ぐためには長期にわたり抗精病薬の服用が必要である。
クロルプロマジンから始まる抗精神病薬は、なぜこの薬が有効であるかに関して、そのメカニズムは明らかでない。抗精神薬の効果は明らかであるが、問題は、一部の患者には効き目が不十分であることと、何年にもわたって服用する必要がある点である。
・最近マスコミで話題になるのは、うつ病発達障害が多い。統合失調症という最も重要な疾患が忘れつつある点が気がかりである。
抗精神病薬に有効性の高い新薬が開発されていることは事実だが、効果が不十分なことはしばしばある。
漢方薬のほとんどは効果が確立していない代替療法に過ぎない。漢方薬に副作用が少ないというのも偽りである。

第4章 「心のかぜ」か「青い悪魔」か
うつ病においても、多くのウソが横行している。
・1990年代以降、一部の製薬会社が、「うつ病」についてのポジティブなイメージを多量に発信するようになった。うつ病を「心のかぜ」と宣伝し、うつ病が治療を受ければ簡単に改善するという印象が持たれるようになった。
うつ病は容易に死を招く病であり、自殺や心中に至ることもまれではない。また、慢性化したうつ病は何年間にもわたり仕事が出来ない場合も少なくない。
うつ病の認知度が高まることは医療行政にとって都合がよかった。精神科の入院医療の保険点数を抑え、外来診療を優遇した。医療の側は、行政の誘導に従って、入院病床を減少させ、クリニックを多数開設した。
・最近のマスコミのターゲットは、抗うつ薬、特にSSRIであった。SSRIうつ病に対して、約60%〜75%の有効性があることが臨床的な検討から明らかになっている。従来の三環系抗うつ薬などより副作用が軽微で安全性が高い。
・しかし、現在の抗うつ薬うつ病の特効薬ではない。服用して効果がみられない場合も少なくない。
テネシー・ウィリアムズは、自らの精神障害を「青い悪魔」と呼んだ。
・一時期、抗うつ薬の副作用を一方的に批判する新聞、雑誌の記事が立て続けに掲載されたが、これらはほとんど科学的な根拠はない。
抗うつ薬が単剤で効果が見られない場合、複数の抗うつ薬を併用することは、世界的に推奨されている治療法である。

 前述のとおり、コロンバイン高校銃乱射事件の犯人の少年、エリック・ハリスが大量の「ルボックス」というSSRIを服用していたことが分かっており、附属池田小学校事件の犯人もSSRIの「パキシル」を服用していたと言われている。もし、これが抗うつ薬の副作用とすれば、事は患者一人だけの苦痛にとどまらず、否応なしに他者を引きずりこむなど社会的に影響が大きく、一般的な薬の副作用とは大きく事情が異なる。
 尤も、筆者はこうした激しい攻撃性を抗うつ薬のせいにすることを非科学的として明確に否定している。であるならば、SSRIも薬物としての何らかの副作用から免れている筈はなく、ではその副作用とは何だろう。

第5章 混合状態の危険
うつ病の回復時においては、一過性にうつ状態躁状態が同時に出現することがある。これを「混合状態」という。混合状態においては、不安焦燥感が強く、衝動性、攻撃性、攻撃性も亢進しやすい。
・最近無責任なジャーナリストたちは、うつ病に伴う攻撃性、衝動性をすべて薬物療法の副作用であるかのように報道を繰り返している。
抗うつ薬による「薬害」をテーマにした数多くの報道で、ジャーナリズムの標的になったのは、SSRIである。特に批判の標的になったのは、もっとも市場シェアの大きいパロキセチン(日本では「パキシル」名で販売)という薬物である。
・結論から言えば、抗うつ薬に対する批判は、根も葉もない非科学的な垂れ流しの記事が大部分。

 ここでは、第4章に引き続いてうつ病治療薬のSSRIに関するいわれなき攻撃、特にマスコミの無責任さについて繰り返し批判している。この書全体を通じて、筆者のマスコミの報道姿勢に対する不信感は極めて強いものがある。

第6章 濫造された精神疾患
・歴史的、伝統的に通常使用されている診断を「従来診断」と呼び、比較的最近になって作成された、国際的な診断基準による診断を「操作的診断」という。
・操作的診断における基準の代表的なものに、アメリカ精神医学会が作成したDSM−4と、WHOの作成したICD−10がある。
DSMのもっとも大きな特徴は、かつて存在していなかった「新しい」病名を作り出し、世の中に提供した点にある。「パニック障害」「PTSD(外傷後ストレス障害)」など新しい病名を作り出したのはDSMである。
・質の高い医学論文においては、大部分がDSMを用いて診断を行い、新薬の臨床実験においても、対象者のセレクトにはDSMの基準を用いることが多い。
DSMの病名は、単なるラベル替に過ぎないという意見も多い。
 例:うつ病→大うつ病躁うつ病→双極性傷害
DSMに対し強い批判的意見もあり、DSMはあらゆる「正常な」精神状態をなんらかの「障害」に変えてしまい、数多くの「病気」を捏造したという。
→「乱造される心の病」(河出書房新社)著者、クリストファー・レーン
・レーンは、製薬会社は広告会社を利用して新しい病名を宣伝し、例えば内向的なだけの人を「社会恐怖」などとして「病気」を普及させたと批判している。
・非難すべきは製薬会社ではなく、問題はむしろ、診断基準や病名を作る側に存在する。

 DSMのこうした問題点はつとに指摘されているところだ。それに乗った大手の製薬会社の営利行為も非難されてはいるが、医療の現場ではDSMの診断基準はほぼ確立されていて、医療サイドも製薬業者もこの程度の批判など痛くも痒くもないだろう。
 2013年にDSM−5が発表されるが、果してまた病名が増えるのであろうか。折角だから、DSM診断基準の問題点をもっと突っ込んで欲しい気もした。

第7章 患者を蝕む疼痛の呪縛
第8章 脳科学のファンタジー

 この二つの章は、カリオストロやメスメルが登場して、読み物としては面白いが、精神医学の本筋とは少し違うので省略する。
 ただ、「疾病利得」についての指摘は重要である。これは、ヒステリー症状のところで出てくる概念で、病気になることで周囲の人の同情を集めることができ、ストレスの多い学校や職場などを休むことが可能になることを言う。つまり、病気になることで、自分をめぐる様々な条件を有利に運ぶことができると説明されている。

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 この書は、最近の精神医学の置かれている状況が良く整理されていて、一般の啓蒙書としては立派な出来栄えであると思う。
 しかし、読んでいて躓く点がいくつかある。
1、 編集者の要請があるのだろうが、タイトルと内容がそぐわない。「精神科医が狂気をつくる」の精神科医とは、筆者が問題ありとしているある種の医師のみであり、精神科医に一般的にあてはまる訳ではない。特殊を普遍とすり替えるのはややトリッキーである。
2、 各章も同様なことが言える。<ペテン>、<大罪>、<ウソ>、<危険>、<乱造>、<呪縛>など。やや過剰な表現で、読者にインパクトを与えるための作為が感じられる。
 内容は極めて真摯であるのに惜しまれるが、多分編集者の意向が働いていると思われ、世間に広く読んで貰うためにはこの程度のキャッチコピー的な匙加減は仕方ないのか?