竹森俊平「1997年―世界を変えた金融危機」(朝日新聞出版、'07.10.30)とフランク・ナイトの「不確実性」

著者が、今日の世界経済を理解する鍵という、フランク・ナイトの「不確実性」とは何か。
 経済における「不確実性」にはその確率分布を推測できる<リスク>と、それが不可能な<不確実性>があり、前者は<利潤>の要因とはならないが、後者は<利潤>の要因となりえる。
 池田信夫氏の表現を借りれば、“リスクは保険などでヘッジできるが、不確実性は経営者の決断によって処理するしかない。”(「使える経済書100冊」242P)
 <利潤>というのは、生産活動の上で避けることの出来ない<不確実性>を企業家が引き受けることに対する報酬である、というのがナイトの「リスク、不確実性及び利潤」の議論の出発点である。
 ナイトは、経済活動で合理性の成り立たない領域が存在することを明らかにした上で、そこでは「強気」または「弱気」が人間の行動を支配するという。
 また“ペンタゴン・ペーパー”で有名なダニエル・エルスバーグはその論文で「不確実性」の下では、我々は悲観的な予想に立って行動する傾向をもつと結論づける。

 この著書でのキー・ワードを拾い上げてみると、<ナイトの不確実性>、<バジョット・ルール>、<エルスバーク・パラドックス>、<アニマル・スピリット>、<勝者への呪い>、<フリー・ライダー>、<質への逃避>など、何やら興味を掻き立てる項目が並ぶ。

 ナイトの不確実性については、池田信夫氏の「古典で読み解く現代経済」(PHPビジネス新書、’11.6.8)が一章を割いていて、詳しい解説を読むことができる。また竹森氏のこの本自体も、上記に引用した池田氏の「使える経済書100冊」(NHK出版生活人新書、’10.4.10)の中にも含まれる重要な書物である。(ナイトの著書もこの100冊に含まれ、邦訳が絶版なので、webで読める原著が紹介されている。)

 ところで、竹森氏のこの著書は読めば読むほど味わいのある重層的で複眼的な構造になっていて、各章ともどれが中心的テーマか見分けが難しく、昨今の様々な経済的出来事や経済理論が次々と紡ぎだされてきて、著者の測り知れない頭脳の糸でダイヤグラムのように複雑に織り上げられていて幻惑される。従って要領よく要約するのは困難なので、気になったエピソードを少し備忘的に記すにとどめる。


 著者は、1997年を世界経済の流れの節目の年と位置づけることから始め、東アジアの経済危機対応で失敗したIMFの権威失墜が世界の資本の流れを大きく変えたとする。日米の政府の危機管理能力が疑われ、またIMFの危機管理の失敗の連続で安全な資産を求める投資家の「質への逃避」が急速に進行したと分析する。アメリカでは’98年にヘッジ・ファンドのLTCMが倒産の危機に追い込まれ、一方日本では、この年は三洋証券、北海道拓殖銀行山一証券が破綻している事実を挙げる。

 アメリカ連銀の前議長のアラン・グリーンスパンは、リスクの計算できない金融危機に対し、ナイトの「不確実性」を基に対策に取り組み、金融危機の火消し役として成果を上げたが、日本の政治家や官僚は何も失敗から学んでいないと述べる。
 この書では2005年のグリーンスパン前議長が金融政策の最も重大な任務と考える”リスク・マネージメント・アプローチ”についての前議長の説明が紹介されているが、非常に重要な内容なので、以下に孫引きであるが引用する。

「過去20年の連銀の経験から明らかなように、『不確実性』は単に金融政策の行われる環境にとって無視できないというだけではなく、その環境を特徴づける決定的な要因なのであります。ここで使用している『不確実性』という言葉は、結果についての確率分布が未知である『ナイトの不確実性』と、結果についての不確実性が確率分布が既知であることによって限定されている『リスク』の両方を含むものであります。実際上、われわれはどちらのタイプの不確実性に直面しているかを、リアル・タイムでは知ることができません。それゆえ、明確な形をとった『リスク』から、『真の不確実性』までの連続的な範囲を常に念頭に置くべきでしょう。」

 わが国の政治・経済の指導者たちが、例えば大地震原発事故など、厄介で不確実な出来事に直面すると、「想定外だ」と言って思考停止に陥って責任逃れをする有様と、このグリーンスパンの深謀遠慮と透徹した状況への洞察力、またそれを踏まえた政策実行力を比べると、あまりに違いが大き過ぎて言う言葉もない。

 日本の政府・官僚の金融危機への対応策について著者は高橋洋一氏の銀行の引当金に関する鋭い見解を踏まえて次のように指摘する。住専問題を始めとする日本の金融危機は、銀行が回収不能債権額に相応する引当金を積まなかったためである。要するに、引当金という会計処理、ロスカット・ルールを関係者が理解していなかった。そして引当金不足の不良債権が累積されていったにも拘わらず、監督官庁が意図的な隠蔽工作を行った結果、山一証券などの金融機関の破綻が生じたのである。

  そして、日本の場合、一番恐るべき「不確実性」は、凶暴な国際資本の力ではなく内なるものであるとし、’97年、’98年のマイナス成長の原因も、「失われた10年」をもたらした原因も、年金記録洩れの原因も、外ではなく内にある、と結論づける。つまり、「わが国の場合’97年、’98年における経済の転覆につながる『不確実性』をもたらしたものは、外国のヘッジ・ファンドでもなければ、為替投機家でもない。それは内なるもの、日本的な組織の闇である。」

 内なるもの、即ち日本的な組織の闇の例証は、歴史的検証の中から浮かび上がってくる。著作から引用すれば、’97年というと、消費税率が3%から5%に引き上げられ、北海道拓殖銀行山一証券や三洋証券という大型倒産があった年である。また戦後初めて無担保コール市場でのディフォルトが発生した年である。著者は「結局、政治家が金融システムに目を向けるようになったのは11月の大型倒産があってからのことであった。」と前置きし、
「なぜそれまで問題を放置していたかというと、官僚が情報を伝えなかったためである。なぜ、伝えなかったのか。どうやら『財政再建』の拘束が働いていたようである。つまり、『財政構造改革』の推進に力を注ぐ経済官庁は、金融システムの問題が表面化すれば『財政再建』が先送りされると心配して、微妙に修正した情報を政府に伝えた。」

増税の影響についても、不良債権の規模についても、山一倒産の直接の原因となった簿外債務についても、首相は実態を知らなかった。先進国の政府で、経済の行方を左右する重要な問題について、これだけ何も知らない首相がいるだろうか。」ちなみに、このときの首相は橋本龍太郎である。
 これはまるで、今年の状況を語っているようで、強い既視感を覚える。政治の無力も、官僚の(犯罪的)狡猾も今でも同じ構図で、何も変わっていないのみならず、この二大組織の劣化は更に進行している。

 ここで分かるのは、1、経済官僚(主に財務省)は「財政構造改革」を錦の御旗としていて、増税が国民にもたらす苦痛や、企業の苦衷などは歯牙にもかけない。2、「財政構造改革」を達成するためには情報操作などいかなる犯罪的手段も厭わず、その点での彼らの人倫はないに等しい。3、最近の首相を始めとする政治家は経済の重要な課題を自分の頭で考える能力を持たない。したがって官僚の洗脳に極めて汚染され易い。4、政治家・官僚の準拠する倫理観と、長年世間が守り育ててきた道徳観は(封建時代の昔から)絶対に合致することはない。

 本著作は、私の不得意な分野の本格的な日本の経済書であるが、曖昧なところのない達意の文章は明晰で分かりやすかった。それでも完全に理解し得たとは言えず、勘違いや理解不足が多いことを怖れるが、素人談義と思って何卒ご容赦を。
 経済書はすぐに賞味期限が切れるものが多いが、本書は2007年10月の出版であるにもかかわらず少しも古さを感じさせない。

現代思想」7月臨時増刊号で、<総特集 震災以後を生きるための50冊>という企画があって、多くの筆者の震災に対する思想的立ち位置や物の見方が分かって大変面白かったが、もし私がその立場だったら、怖いもの知らずでこの本を挙げてみたいと思う。

「ナイトの不確実性」を全く理解せず、震災後の想定外のうろたえぶりでその化けの皮が剥がれた政治家や官僚という二大組織が混迷を極めているときであるからこそ、この書はますますその値打ちを増してくるように思える。