「陋巷に在り」(1)〜(5) (酒見賢一著(H.8.4.1 新潮文庫)―謎の孔子像に迫ろうという奇想天外の物語だが、孔子にも迫れず、そもそも長すぎる

安冨歩の「生きるための論語」(ちくま新書:'12.4.10)を読んでいて、ふと酒見賢一の「陋巷に在り」を思い出した。かなり以前に読んだ記憶がある。ただ、最初は非常に面白かったのだが、読み進むうち、次第にオカルト的な側面に辟易して第7巻で読むのを止めている。
 ただ私の中で「論語」と「孔子」への関心はその時より数段高まっているので、もう一度、このシリーズに挑戦してみようという気になった次第。

 上記の安冨氏の本は、かつて接したことのない刮目すべき鋭い読みに満ちている。この本のおかげで、伊藤仁斎のいう「最上至極宇宙第一の書」の意味が初めて少し理解できた気がする。この本については、いずれ感想を述べたい。

陋巷に在り」のシリーズを読み始めた動機は、「論語」をよりよく理解したいがためであった。作者は、「論語」、「春秋左氏伝」、「史記」<孔子世家>、「孟子」など、真偽がランダムに入り混じった根本資料を根幹に据えて、想像力を駆使した感嘆すべき壮大な読み物を作り上げた。あたかも長編劇画を紐解く感じであったが、叙述はだらだらと節操もなく続き、ストーリーはメリハリを欠いており、いかにも長すぎる。また、孔子の姿がよく見えない。顔回が主人公なのだろうが、陽虎、少正卯、悪悦、子蓉といった悪役の方が生き生きしている。これもいかにも劇画然としている。
 悪悦と子蓉の兄弟の姦計によって孔子やその弟子たち(公冶長や子貢など)が完全に手玉にとられ、手も足も出ない状況の描写が続いてうんざりする。孔子という中国古代最大の人物の存在感が全く感じられない。もしかするとこの著者の知力では、孔子という超人の実相に迫ることは無理なのではないか、とさえ考えてしまう。
 その代わりに、例えば少正卯が顔氏の支配地で顔氏の長老の放った刺客犬と死闘するなどの活劇場面が次々と展開される。
 また、子蓉に鏡蠱を仕掛けられた少女”よ(女偏に予)”を中心に延々と物語は続き、読んでいて徒労感に襲われる。
 第5巻まで読んだが、ストーリーの展開の見通しが今一つ見えづらい。こうした記述が一体どこまで続くのか全く分からない中で、もがくように読み進めるしかない。この作品は(全部読んではいないが)喚起力の強い優れた文章・史実と想像力の巧みなコラボレーションなど、ある意味では傑作なのであろうが、私に残された人生の時間では、このような本をゆっくり読んでいる余裕はないのだ。という訳で、またまた挫折してしまった。
 なお、この作者の作品では「墨攻」(新潮文庫)が緊密な構成で優れた作品であったという記憶がある。

 中国ものでは、やはり陳舜臣(「小説十八史略」、「秘本三国志」)と宮城谷昌光(「重耳」、「夏姫春秋」、現在も書き続けている「三国志」など)を大いに熱愛している。特に「小説十八史略」は年に1回は読み返している、私の生涯の愛読書である。

論語」をよりよく読むための孔子の伝記については、白川静先生の「孔子伝」(中公文庫)が手っ取り早い。稀代の碩学の書いたこの非凡な著作を紐解くと、伝記を含む孔子と「論語」を巡る諸事情が極めてよく理解できる。この辺りは後日のテーマとしたい。