「ソクラテスの弁明」(2) 未だに現代を照射続けている偉大なる知の書物

この書については、従来、岩波文庫の久保勉氏の格調高い翻訳に親しんできたが、この度三嶋輝夫氏の比較的新しい訳(講談社学術文庫、1998.02.10)を読んでその明晰さに感銘を受けた。そこで、この訳に基づき初歩的なおさらいをした上で、現代にも通ずる何らかの示唆を汲み取ってみたい。この翻訳は、本書の文献表を見れば分かるとおり、アーウィン、ヴラストス、ブリックハウス&スミスなどの1990年代に刊行されたソクラテス研究の最新の成果を取り入れて綿密な考証の上翻訳されたもののようで、訳註や解題も含め、今最も信頼に足る翻訳となっているのは、改めて言うまでもない。また、この高名な書物には汗牛充棟ただならぬ夥しい参考文献と考証が存在するが、以下はこの書に関する一般的な知識・情報以外は、あくまでも本文テキストだけを読み込んで理解した範囲の拙い感想であることを付け加える。(ただし、後述のように、R.S.ブラックの「プラトン入門」だけは、定評ある古典的著作なので、若干参考にさせて貰った。また、本書の中で訳出されているクセノポンの「ソクラテスの弁明」、それに、アリストパネスの「雲」も読んでおいた。後者は、もう奇想天外でハチャメチャな漫才風ドラマで、ソクラテスも弟子のカイレポンもソフィストの一味として徹底的な揶揄の対象となっている。)

まず、このドラマの基本情報は以下のとおり。
時 代:前399年
場 所:アテナイの裁判所
記録者:プラトン(この時28歳)
ソクラテス:前469年生、この時70歳

 そもそもソクラテスが弁明しなければならない相手とは誰なのか。
第1に、ソクラテスに対する「最初の虚偽の訴えと最初の告発者に対して」であり、
次に、「それよりも後になされた訴えと告発者に対して」なのである。
 前者は、以前からの告発者、つまり昔から永年にわたって悪意をもって噂を撒き散らして、欠席裁判の状態でソクラテスを告発してきた連中で、アリストパネスを除いて名前も知らず、云うことも出来ず、ひたすら影と戦うようにして弁明し反駁しなければならない相手である。
 後者はごく最近になってソクラテスを告発したメレトスと、共同論述人であるアニュトス、リュコンである。

 ソクラテスはまず、長い間にアテナイ人の身にしみこんだ自分に対する非難を、これほど短時間のうちに彼らから取り除くことの困難を訴えるが、事の成り行きは神の思し召しに委ね、法に従って弁明をしなければならない、と前置きする。

 そもそも非難する者たちの主張とはこういうことである、
ソクラテスは、地下ならびに天空の事物を探求するとともに、劣った議論を優勢にし、またそれと同じことを他の者たちにも教えるなど余計な事を行い、不正を犯している。」 
 
 ソクラテス「これらの事柄の何一つとして私のあずかり知らぬことなのです。」として退ける。そして、聴衆の大多数に自らその証人になって貰うことを求め、「以上の事柄について私が対話を交わしているのを多少なりとも耳にされたことがあるかどうか、お互いに話し合ってみてください。」と訴える。
 続けて、ソクラテスが人びとを教育してお金を取っているという噂を否定する。

 それからこの書で最も重要な場面に入る。
 ある時ソクラテスの最も忠実な弟子であり友人であるカイレポンがデルポイに赴き、大胆にも、ソクラテスより知恵のある者がだれかいるかと預言の神アポロンに託宣を求めたところ、アポロンの言葉を語るという“ピュティア”と呼ばれる巫女は、「ソクラテスより知恵のあるものは一人もいない」と答えたのである。

 ソクラテスはその話を聞いて次のように思案した。
「いったい神は何を言おうとされているのだろうか。いったい何の謎をかけておられるのだろうか。それというのも実際、自分自身、事の大小を問わず、およそ自分が知者であるとは思えないからだ。それでは神は、私のことを最も知恵があるとおっしゃることによって、いったい何を意味しておられるのだろう。なぜなら、けっして神が嘘をつかれるはずはないからだ。」
 そこでソクラテスはそのことの意味を解明するために知者だと思われる人びとのところへ探求に赴くのである。
 かれが知者と考えたのは、まず“政治家”、次に“作家たち、それから“手仕事の技術を持つ人々”である。
 それで分かったことは、かれらは知らないくせに何か知っていると思っているのに対し、ソクラテスは自分が知らないことについては、それを知っていると思ってもいない点で、知恵があるように思えたのである。これがいわゆる“無知の知”と言われるものだ。

 さらに作家たちは、かれらがその創作活動のゆえに、他の事柄に関しても、自分たちが人間たちの中で最も知恵があるのだとー実際にはそうでないのにー思い込んでいる者たちであり、優秀な職人たちもまた、こうした過ちを犯していると思われた。

 ここで言う“作家たち”とは、現代ではいわゆる作家の外にも、ジャーナリストなど文筆稼業に携わる多くの者たちが存在するし、“手仕事の技術を持つ人々”には医師や弁護士は勿論、スポーツ選手や芸能人も含まれるだろう。またこの双方にまたがって、大学教師と呼ばれる万能選手もいる。
 最も知恵があるという思い込み(錯覚)の例を挙げれば、たかだか検事上がりの弁護士や、売れない俳優とかコメディアン、あるいは元スポーツ選手などの愚か者たちが、臆面もなくテレビのキャスターやコメンテーターとしてあたかも万能の如く言辞を弄している有様が典型である。まあ、出演者にこと欠いた挙句のことと同情はするが、こうしたことが日本のテレビが没落の道をたどりつつある一因かとつい思ってしまう。
 これらの人々の内、特に高学歴、高偏差値を必要とする職種の人々の誤った全能感は、特に危険であり、それにもまして滑稽でもある。これは私たちが自分たちの周りで日頃しばしば目の当りにすることではあるが、厄介なのはこれらの人々がそのことを、即ち専門外の事柄でも何でも自分が一番と思い込む傲慢さと愚かさが分かっていないことである。

 人は、財産がないことを指摘されても長く腹を立て続けることはないが、知能が劣ると言われると、いつまでも深い怨みを持ち続けるものだ、とはしばしば耳にする、人間の本性をよく現わしている言葉である。
 ソクラテスは、前述の知者と言われる人々に対し、次々と知者でないことを指摘し続けたため、広く深く世間の恨みをかうことになった。このような底流があった中で、ついにメレトスなどがソクラテスを直接告発するに至ったのである。

 ソクラテスのような知者が、なぜわざわざ人の憎しみをかうような一見愚かなまねをしたのだろうか。ただ他人の愚かさを暴き、そのことによって自分の知者ぶりを証明して何の意味があるのだろう。それで、何か世の中に貢献したのであろうか。無意味なことのように思えて仕方がない。
 勿論答えは分かっている。「憎まれることを感じて苦しみもすれば恐れもしたのですが、そうはいっても神のことを最優先しないわけにはいかないと思われたのです。だとすれば、神託が何を意味しているかを究明するため、・・」行ったことなのだ。また、ソクラテスは次のようにも言う。「神こそが真の知者なのであり、そしてその神託においてもつぎのこと、つまり人間の知恵というものはごくわずかの価値を持つに過ぎないか、何ら価値のあるものではないということを言おうとされているらしいのです。」
 だとすれば、キリスト教を始めとする世界宗教が誕生する以前の世界において、神というものの理解が重要となってくる。ソクラテスへと連綿と繋がってきている古代ギリシャ時代の神(神々と言ってもよい)とは当時の人々の世界観の中において、どのような存在として位置づけられていたのだろうか。

 ここに興味深いのは、イギリスの古典学者のR.S.ブラックは「プラトン入門」(岩波文庫、1992.6.16)の<まえがき>で、プラトンの学説を説明するコンテキストの中で出てくる下記のような記述である。これを読むと“神こそが真の知者”というソクラテスの言葉の意味が漠然と分かるような気がする。
 プラトン「神の意図ないし神の計画の存在に確信を抱いていた。プラトン哲学とキリスト教とはともに目的論を信条としたものであるが、それら両者の間の重要な相違は、前者がアスピレーション(神的なものへの憧憬・熱望)を説くのに対して、後者がインスピレーション(神の啓示・恩寵)を説くところにある。プラトン哲学の場合には、人は真理達成への努力をまって初めて真によき生を送ることができるようになるのだが、キリスト教においては、神の恩寵が人間に到来するものとされ、人はただひたすらにそれを受け取るべきなのである。そこから、一方の立場は知識を要求し、他方は愛のみを求める。しかし両者ともに、世界は合目的的であるという前提を踏まえている。この前提は学問的に証明されうるものではなく、いかに高い確度の可能性に支えられているにせよ、そこに信仰という要素が残らざるを得ない。」
「弁明」は、そのプラトンの著作であるから、ソクラテスの口を通じて言及される神もプラトンの考えている神とほぼ同じようなものと把えていいだろう。ブラックの上記の記述は、主に古代ギリシャの神とキリスト教の神との相違という視点に重きを置いて書かれているが、その前提として共通点も示されている。「弁明」を読んでソクラテスが神を語るとき感じるのは、キリスト教の神に似た肌触りである。ブラックが共通点として挙げた合目的論的な信条こそ古代ギリシャからキリスト教、そしてヘーゲルマルクスに至る西欧の世界観の中心を貫く大きな柱であることが分かる。言うまでもなく、キリスト教では”三位一体と最後の審判”、ヘーゲルの神は”理性”、マルクスの神は”唯物史観”であった。現代の西欧合理主義の神は、さしずめ”自由と民主主義”であろうか。
                                 
 ソクラテスは最初の告発者たちの訴えに対する弁明を終え、次の最近の告発者たちに対する弁明に入る。ここでは告発者のメレトスと対面し、エレンコスと呼ばれるソクラテス流の問答法を駆使して、告発者の主張を根底から突き崩して行くのである。
 また、ここへ来て次第にかれの発言のヴォルテージが上がるため、どこか高慢に感じられなくもない。

 宣誓供述書に基づく告発者たちの主張する罪状は以下のようなものであった。
ソクラテスは若者を堕落させ、また国家が崇めるところの神々を崇めずに別の新奇な神格を崇めることによって不正を犯している。」
 ここに言う「新奇な神格」とはダイモニオンのことで、古代ギリシャなどにおける神霊の一種“ダイモーン”の合図のようなものである。それはソクラテスが何かをすることを制止する働きを持つが、けっして何かをするように促したりしないものである。

 紙数が大分多くなってきたので、とりあえずこの辺で止めることにする。ソクラテスの死刑判決に至るまで、まだ興味深いシーンが続くが、またの機会としたい。また”神”とともに、従うべき規範として”法と正義”が前面に出てくるのも考察したいテーマだが、今は言及する余裕がない。
 また、クセノポンの書の中で言及されているソクラテスの老いと死の問題も極めて興味深いが、次回に譲ることとする。
 最後に一言感想を言えばプラトンの「ソクラテスの弁明」は、現代に生きる私たちにも、実に多面的に知的関心を掻き立てるたぐいまれな書物である断言できる。