小出裕章氏の著書を読んで考える


 3.11以来、信頼できる原子力の専門家をネットで捜しまくった。何故なら、大メディアがどうにも信頼が置けないからである。朝日、読売、民放各局はダメ、ただしNHKは事実の確認には参考になった。
 最初こそ、これは思っていた専門家たちも次第に馬脚を現わし、がっかりすることもしばしば。その中で、小出裕章氏は信頼に足る原子力の専門家だと思うようになった。<たね蒔きジャーナル>や<UStream>などで毎日その見解に耳を傾け続け、説得力のある解説や反骨を貫くその気概には感銘を受けた。

 書店で小出氏の著書「放射能汚染の現実を超えて」(河出書房新社)を見つけ、一気に読了したが、その論調の中に僅かに違和感を覚える記述を見つけた。
 未だに議論のある、日本軍の三光作戦南京大虐殺、あるいは従軍慰安婦問題の端緒を作った宋斗会の主張を極めてナイーブに、疑問の余地のない歴史的事実として論旨を補強する材料として使っている。これはもう少し検証をした方がいい気がする。本多勝一氏の書物で有名になった虎石溝の万人抗もまた議論のあるところで、反原発運動をエゴであるとして普遍的ヒューマニズムを訴える論調の裏付けに用いているのは、僅かに無理があるかなと感じた。

 氏の長年不遇をかこちながらも信念を曲げなかった素晴らしい人間性原子力に対する深い文明論的洞察力には全面的に賛同するものである。原発に関する科学的知見にはほぼ全幅の信頼を置いている。
 願わくば、歴史という検証の難しい厄介なものに対しては、もっと神経を使っていただければと思うし、使い方によっては逆効果にしかならず、議論のある歴史の採りあげ方が氏の論調の正当性を弱めることになりはしないか、と惜しむ。

 また、続いて「原発のウソ」(扶桑社新書、2011.06.01)も読んだ。その直後、日本共産党のホームページにある6月16日の志位委員長の記者会見「原発からのすみやかな撤退、自然エネルギーの本格的導入の国民的合意を呼びかけます」を見たが、ほとんどが小出裕章説、広瀬隆説の当たり障りのない焼き直しみたいで、話し方もごく平凡、論旨にも目新しいものはなく、政治家としてのカリスマ性やインパクトあまり感じさせないものであった。日本共産党知的水準を暗示するのでなければいいのだが。
 福島原発の事故そのもの、そしてその象徴としてしばしば繰り返される“想定外”とい言葉は、未だに人間の脳に刷り込まれて消えない17世紀以来の理性一辺倒主義の啓蒙主義思想の残滓が音を立てて崩れた瞬間であった。

 また、ヘーゲルの「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。」というテーゼが、人間の傲慢が、自然秩序の軽視がすべてひっくり返った瞬間でもあった。あまりにも反理性的なものが(原発という)現実を支配し現実のうちに実現してしまっていたのではないだろうか。