「世界を変えた10冊の本」池上 彰著(文藝春秋、'14.3.20)−「社会契約論」が抜け落ちている?

電子書籍で読んだ。一読して、池上彰の世評が高いことに納得がいった。実に要領のいい、分かりやすい解説だ。それぞれの著作と作者について、著者が十分咀嚼をしていないと、こうも明晰な本は書けないであろう。


 さて問題は、10冊の本の選択にある。一応、書名を並べてみる。著者の趣味の良さを垣間見ることができよう。
 1.アンネの日記 2.聖書 3.コーラン 4.プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 5.資本論 6.イスラーム原理主義の「道しるべ」 7.沈黙の春 8.種の起源 9.ケインズの一般理論 10.資本主義と自由


 他に、本来ここに入れるべき候補著作としては、
 A.プリンピキア(ニュートン) B.戦争論クラウゼヴィッツ) C.社会契約論(ルソー) D.相対性理論アインシュタイン) E.不完全性定理ゲーデル) F.また、特定の本ではないが、ボーアからシュレーディンガーを経て発展を遂げてきた「量子論」の分野
 などがある。池上の選んだ本には、総じて”理系”の本が少ない。(種の起源だけだ)しかし、昨今の世界を変えてきたのはほとんど”理系”の思考であるのは間違いない。



 一方『社会契約論』フランス革命以降、さんざん血の雨を降らせてきた多くの革命運動のバックボーンとなった、極めて重要な本である。そういう意味では、ルソーはマルクス以上に怖い存在だ。岩波文庫版の解説で、河野健二「ここで説かれているのは、一言にすると革命的民主主義の国家論である。」、「ルソーの構想した国家は、権力分割の上に立つブルジョワ的な立憲君主制ないしは議会主義国家ではなく、全人民を主権者とする直接民主政、人民独裁の国家であったと考えられる。」と述べていることからそれは想像できる。フランス革命後の国民公会ロベスピエールがルソーを称揚し、その遺骸を「偉人の殿堂たるパンテオン」に移送することを決定したのもむべなるかな、である。
 翻訳(*)で見る限りだが、ルソーの文章は極めてレトリックの勝った、詩的インスピレーションに富む一種の名文で、それゆえ曖昧で意味の取りづらい側面がある。その文章作法には、まったく正反対の解釈も可能である罠のようなものを感じる。「一般意志」の概念などはその最たるものだ。
(*)岩波文庫版(桑原武夫など、主として京都大学人文科学研究所のメンバーによる、日本語として十分にこなれた優れた訳である。)
 

 そもそも10冊などという限定方法には、特に何か根拠がある訳ではないだろう。



 本書に挙げられた10冊の本から、1冊だけ見てみよう。マルクス『「資本論についての説明は、極めてまっとうに<労働価値説>、<商品の使用価値・交換価値>と続いていくが、思い出したのは小室直樹『経済学をめぐる巨匠たち』ダイヤモンド社)におけるマルクスの項である。ここで小室は<疎外>の本質から説き起こしている。<疎外>は資本論には出てこない言葉で、強いて言えば第1巻の第1篇第4節「商品の物神的性格とその秘密」に相当すると思われるが、小室の記述を読むと、単純に同一概念とも思われない。
 <疎外>『経済学・哲学草稿』に出てくる言葉だが、読んでも今一つ飲み込みにくい。それを小室は、大胆にも「”疎外”とはずばり”社会現象には法則性が在る”という事である。」と断言し、更に風呂敷を拡げて「この世の経済、社会、歴史には、それを動かす一般法則が存在し、人類にはこの法則を操作する力などない。これこそが”疎外”の真髄であり、マルクスが遺した最大の業績である。」と続ける。そのように決めつける小室の話の筋道が目茶目茶面白い。(詳しくは、ご一読を!)
 一方、池上の本は中庸を心得ていて、このようなドラスチックな切りこみ方はしない。  

「科学は大災害を予測できるか」フロリン・ディアク著(村井章子訳、文春文庫、'12.10.10)−本書を貫くテーマはカオス現象

著者は<まえがき>で次のように述べる。
「私は、多くの力学系に起きるカオスと呼ばれる現象に興味を持っていた。カオスとは、初期状態が同じでも結果がまったくかけ離れたものになるような、非常に不安定な現象を意味する。」
 カオス理論は、マサチューセッツ工科大学の気象学者エドワード・ローレンツがアンリ・ポワンカレの業績を20世紀後半になって復活させた理論で、「予測可能性−ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起きるか」(バタフライ効果)という1972年にアメリカ科学振興協会で行った講演のタイトルで関心を引くことになった。


 本書で取り上げられている大災害は以下のとおりだが、その大部分にカオス理論が働く。あるいは、予測不可能性については、ベキ乗則が働いているっと言っていいかも知れない。(マーク・ブキャナン著『歴史は「べき乗則」で動く』参照)


1、津波
2、地震
3、火山
4、ハリケーン
5、気候変動
6、小惑星の衝突
7、金融危機
8、パンデミック


 さて、これらのテーマはわくわくするほど心魅かれる。何しろ私は30年近くを災害親和都市(?)鹿児島で暮らしてきたからだ。そのせいか、自然災害には並々ならぬ興味と強い関心がある。
 日本で最も活動的な火山である桜島の南岳は活発な噴火により対面する鹿児島市錦江湾を間にわずか4キロの距離だ)に甚大な降灰被害をもたらしている。また霧島には一時期激しい火山活動が見られた新燃岳がある。
 一方鹿児島は頻繁に台風と集中豪雨に見舞われ続けている地域でもある。平成5年8月6日の記録的豪雨では鹿児島市内の甲突川が氾濫して(いわゆる8・6水害)市内が水浸しになり、私自身もしばらくはマンションから外へ出れなくなる経験をした。この洪水は「激特」(河川激甚災害対策特別緊急事業)の対象となり、5年にわたって合計268億円の事業費が費やされることになった。この時に、甲突川に掛るいわゆる五大石橋のうち二つが流失し(新上橋、武之橋)、残る三つの橋(玉江橋、西田橋、高麗橋)の石橋記念公園への移設などが行われた。これらの橋は、弘化2年から嘉永2年までの4年間(島津斉興の時代)に架設された貴重な文化財であった。
 特筆すべきは、九州は7300年前に破局噴火し、南九州の縄文文化を壊滅させたといわれる鬼界カルデラを始めカルデラのメッカで、鹿児島県だけでも他に姶良カルデラ、阿多カルデラなどの巨大カルデラがあり、熊本には阿蘇カルデラ、宮崎には加久藤カルデラ、小林カルデラがある。これらの存在は、川内原発の再稼働の審査の動向にも大きな影響を与えている。ただし、カルデラ噴火は、数万年〜数十万年に一度であり、火山としての視覚に訴えないことから、第一級の火山でありながら普段は火山という実感はない。
 また長崎に目を転ずると、雲仙普賢岳は平成2年11月17日に噴火し、翌年5月15日には最初の土石流が発生、同年6月3日には大火砕流により死傷者を出している。現在は九州新幹線開通のため廃止となっているが、鹿児島→福岡の航空便はこの山の上を通っていて、私も一度ならず、火砕流の痕で怖ろしいケロイドのようになっている普賢岳の山肌を見たことがある。


 私の災害経験として、古い話だが、昭和30年10月1日に発生した新潟大火は今でも記憶に鮮明に残っている。私が中学生の時だ。わが家をちょうど扇の要の位置として周囲を巨大な炎が舐め尽すことになったが、幸いわが家は被害は免れた。この大火で市内の主要部は殆ど焼失するという大きな被害を出している。焼失した主要な施設は、新潟日報社、大和・小林の両百貨店、新潟市役所、新潟郵便局、第四銀行本店、竹山病院、寺町の寺院街などであった。
 昭和39年6月6月16日に起きた新潟地震の際は、勤務していた東京の下町の銀行の窓口でテラーの職務についていて、急に気持ちが悪くなったのを思い出す。体調の不良ではなく地震の揺れのせいであった。この年の4月に就職のため東京に出たばかりだった。この時に新潟へ帰って撮った写真を2011年3月14日のブログに掲載している。(下記参照)

東日本巨大地震と、47年前の新潟地震


 この本にも紹介されているパニック映画『デイ・アフター・トゥモロウ』(ローランド・エメリッヒ監督)をiTunes Storeからダウンロードして観た。観るのはこれで二度目である。温室効果ガスの影響による地球温暖化で南極の棚氷が融け始め、突然地球(北半球)に氷河期が訪れ、この急激な気候変動で、雹や竜巻や洪水がアメリカの大都市を容赦なく襲う。
 主人公のジャックは、北大西洋の海流と海水温度を観測している海洋学者のラプソンの助力で異常気象を予測し、副大統領などに警告するが取り上げられない。そうこうするうちに、温暖化で大量に融けた氷(融けた氷は淡水になり、海水の塩分濃度を低下させる)が、メキシコ湾流の深層海流循環を停止させ、北欧、北アメリカが急速な寒冷化に見舞われることになる。
 後半、ジャックがニューヨークへ息子のサムを助けに行く行動は理解しがたいが、監督のエメリッヒが映画のマーケッティングのため、エンターテインメントの要素も必要と考えたのだろう、まあ大目に見ておこう。
 異常気象や地震・火山に人一倍関心の強い私にとっては、とにかく面白くて仕方のない映画でった。


 さて、本書の中味を一瞥してみよう。
 第1章「津波」 スコットランドの若い造船技術者であるジョン・スコット・ラッセルが最初に<孤立波>の存在に気づいたことから、以後さまざまな科学者による津波の謎への挑戦が描かれる。<孤立波>の研究にまつわる波動理論については、この書で始めて知り、大いに興味を覚えた次第。
 著者は「津波がいつ襲来するかを正確に予測することはまだできない。その最大の理由は、津波ののおおもとの発生原因を予測できないことにある。」という。本書にも取り上げられている、地震小惑星の衝突が発生原因の二つに数えられるようだ。


 第2章「地震」 ここでは、地殻構造運動がカオス現象と断ずるロバート・ゲラー東大教授の考え方が紹介される。ゲラーは地震予知は不可能とする立場に立つ。ゲラーの予知懐疑論には大いに肯けるものがある。
 ゲラーについては、マーク・ブキャナンの『歴史は「べき乗則」で動く』でも言及されている。この本でもゲラーは、地震予知悲観論者として登場する。


 第3章「火山」 先に述べた破局噴火は、2002年9月に発表された石黒耀の『死都日本』(講談社文庫)で始めて登場した言葉だ。この作品は、南九州の霧島火山帯が「じょうご型カルデラ火山の破局的噴火」と呼ばれる種類の超巨大噴火を起こすという物語で、南九州に長い間住んでいてこの作品の舞台には十分な土地鑑があり、かつ自然災害オタクの私にとっては無類の面白さで、何度も読んだ。
 地球(文明、人類)を滅亡に追い込む大災害としては、小惑星の衝突、全面核戦争と破局噴火であろうが、火山の破局噴火が最も可能性が高いのではないか。過去のトバ火山やイエローストーンのようなクラスのスーパーボルケーノが破局噴火を起こせば、人類は滅亡の危機に陥るであろう。イエローストーンについては、最近異変が伝えられ、巨大なマグマ溜りが形成されつつあると警鐘が鳴らされている。
 イエローストーンといえば、やはりローランド・エメリッヒ監督の映画『2012』を思い出す。この作品は、イエローストーンの大噴火、世界中に連続して発生する大地震、それに伴う大津波など自然災害てんこ盛りの映画だ。2012年の冬至ころ(12月21日)に人類が滅亡するという古代マヤ人の予言を元にした作品で、ノアの方舟に擬した人類救済用の巨大船舶の登場など(エメリッヒらしい)いい加減さのある作品だが、流石にCG技術を駆使した災害の映像は凄まじい。


 第4章「ハリケーン」 ハリケーン、サイクロン、台風を取り上げている。これらが、海の気温、水蒸気などの気候と大きな関係があることは、『謎解き・海洋と大気の物理』(保坂直紀著、ブルーバックス)を読めば、なおよく分かる。例えば、本章で簡単に触れられている「コリオリの力」などについては、保坂の本で詳しく説明されている。
 ハリケーンで思い出したのは、昔観た映画『キー・ラーゴ』(ジョン・ヒューストン監督、1948年)だ。フロリダキーズのキー・ラーゴ島を舞台にした作品で、ハンフリー・ボガートローレン・バコールが出演したが、何といってもギャングの親玉に扮したエドワード・G・ロビンソンの悪役ぶりが際立っていた。勿論CGなどのない時代で、いわゆる特撮でハリケーンの場面が撮られているが、とても迫力があったことを記憶している。


 第5章「気候変動」 ここでの主なテーマは、二酸化炭素の増大による温室効果ガスの排出がもたらす地球温暖化の加速についてである。ここでは書物の性格上概略の説明しかないが、気候変動問題については、ブライアン・フェイガンの著書が面白い。(『歴史を変えた気候第変動』など)
 温暖化については、本書で例えば海面温度の上昇などでカオス理論に関するローレンツのモデルが当てはまるかを検討している。どうやら、なかなか一足飛びにアジャストはできないようである。


 長くなりすぎたので、第6章「小惑星の衝突」、第7章「金融危機」については触れない。


 第8章「パンデミック」 現在進行中の感染症である<エボラ出血熱>、<デング熱>の騒動を考えながら読むと興味深い。
 感染症の流行関する詳細な歴史は、ウィリアム・マクニールの『疾病と世界史』(上下、中公文庫)が参考になる。


 なお、本書の翻訳について一言すると、冗長さのない、しかも意を尽くした優れた訳文で、何の抵抗なくすらすらと読むことができた。


 

 

幾冊かの健康本とB級投資本、そして『老子』

 このところブログの更新が滞っている。もう2ケ月になろうか。古希をとうに過ぎた身で、週に5〜6日をフル勤務しているので、やはり疲れが累積し、 パソコンに向かって文章を書くのは体力的・気力的にも辛い。それでも本を読むことは、他の色々な楽しみを削ぎ落して唯一残った道楽なので、この2ケ月の間も本はランダムに読み散らしてきた。以下に、備忘的に読んだ本を記しておきたい。



 トマス・F・モンテルオーニの『聖なる血』(扶桑社ミステリー、'97.8.30)というオカルト小説を読んだ。それなりに面白く読んだが、読んでいる最中、何故かシュワルツェネッガー主演の『エンド・オブ・デイズ』(1999年)を思い出した。こちらの主人公は悪魔であるが。
 この作品のカギは<トリノの聖骸布>である。似たようなテーマの作品であるダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』では<聖杯伝説>が取り上げられている。
 この期間に読んだ小説はこれだけである。



 Kindle『主食をやめると健康になる』江部康二著(ダイヤモンド社、'12.9.14)と『大往生したけりゃ医療とかかわるな』中村仁一著(幻冬舎平成24年3月)を読み、紙ベースで『小麦は食べるな!』Dr.ウイリアムデイビス著、白澤卓二訳(日本文芸社、'13.7.10)と『食べない人たち』秋山佳胤他著(マキノ出版平成26年7月20日)と健康本を立て続けに読んでみた。


 それぞれ面白かったが、さあどうかな?というのが正直な感じである。それでも著者がそれぞれ真摯であることは一応理解できる。この中では『小麦・・・』にもっとも強い説得力を感じた。小麦を食べないことを少し実践してみている。(バカかな?)
新潮45』9月号で、<大バカの壁>という特集の中で、幕内秀夫が<糖質制限食ダイエットをまだ続けますか>として最近の極端な糖質制限ダイエットが根本的に間違っていると痛烈に批判している。そして、この糖質制限食のブームの顕著な特徴として、「提唱者たちには男性の医師が多く、その実体験に基づいており」と述べているが、最近テレビでよく見かける某医師の顔がすぐに浮かんだ。 



 他には『年収300万円、掃除夫の僕が1億円貯めた方法』www9945著(宝島社、'13.7.10)を読み、『明日ドカンと上る株の見つけ方』熊谷亮著(幻冬舎、'14.7.25)を読みつつある。小生のポートフォリオが芳しくないので、参考までに読んでいる。(困った時の神頼みか?)投資の本としてはまあB級ではあるが、それなりに参考になる。
 それにしても、アベノミクスの行方に警告灯が灯ったようで、今後の展開が全く読めない。



 以上と並行して老子をじっくり味わいつつ読んだ。小川環樹訳注(中公文庫)をベースに、金谷治訳注(講談社学術文庫)、蜂谷邦夫訳注(岩波文庫)及び奥平卓訳(徳間書店「中国の思想4」)を併せ読む。小川訳は最も訳文の格調が高く捨てがたいが、やや意味の取りにくいところがあり、その点、金谷訳は老子の意図を深く読み込みつつ、しかも現代の私たちにも理解できるように分りやすく訳している。解説もまた的確である。その学究の深さと厚みには感嘆するばかりだ。この中で1冊読むなら、金谷訳だろう。また、小川訳は、まだ馬王堆の帛書(1973年出土)が発見される前の著作であり、他の訳注はすべて帛書(甲本、乙本がある)を参照している。
老子』については、稿を改めたいが、読むたびにその深い洞察力と巨視的な世界の掴み方には感嘆するばかりである。しかも恐るべき韜晦術の巨星で、その中に処世はの知恵がびっしりと詰まっている。中国の古典では、『論語』『孫子』よりも心魅かれる。



 たった今『医療詐欺』上昌広著(講談社+α新書、'14.7.22)を読み終えたが、次に読むために購入しておいた『精神医療ダークサイド』佐藤光展著(講談社現代新書、'13.12.20)、そして現在セブンネットで注文中の『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス著(講談社、'13.10.2)を併せ読んでみたい。(精神科病院で勤務する身にとって、みな極めて興味深いテーマだ。) 


 

最近の読書「百舌の叫ぶ夜」逢坂剛(集英社文庫、'14.4.14)そして「幻の翼」などなど・・・そしてこの頃の所感

TBSテレビの「MOZU」が実に面白く、十数年前に読んだ逢坂剛の原作を捜したが、引っ越しを重ねるうちに行方が分からなくなってしまったので、あらためて改訂新版を買い求めて読んだ。それも一気に読んだ。鬼気迫る日本版ハードボイルド小説は、再読しても面白さに変わりはない。


 その上で、5月15日にTBS「MOZU」シリーズを見たが、原作を読んだ後とはいえ、テレビドラマ自体は急に色あせて見えるようになった。登場人物が陰鬱な表情をし過ぎるし、画面も暗い。後半になるに従い、脚本が複雑な原作のプロットをうまく掬い上げられず、破綻をきたしている。
 登場人物がみな必要以上に深刻ぶっており、また倉木も大杉もむやみとタバコを、それも咥えタバコで吸うのが目障りだった。ワイシャツの襟を広げ、ネクタイをだらしなく緩めた西島秀俊のファッションもどこか板についていない。(こうしたファッションは寺尾聡が得意としている。)
 倉木の西島秀俊は果して彼の役者としての適性に合っているか疑問だ。今人気絶頂の西島はいい役者だが、逢坂の小説に描かれる倉木のような非情さ、底知れなさ、身心ともに強靭なイメージとそぐわない。そのためか、意図的に役を作り過ぎている。
 西島は、以前NHKで放映された『ジャッジ』での島の裁判官がはまり役だった。彼には真っすぐな役が似合う。

 
 続いて、逢坂の『幻の翼』『砕かれた鍵』を読んだ、前者で描かれた精神病院はかなり時代遅れのものだが、それを抜きにすれば大変面白い。以前読んだ時からかなり時間がたっていたが、倉木がロボトミーを施されそうになる場面だけは記憶にあった。ともかく、プロの作者の手による読者を夢中にさせる見事な仕上がりとなっている。


『砕かれた鍵』は、このシリーズでは最早蛇足に過ぎない。百舌シリーズの構想は2作までで完結している。3作以降は蛇足に過ぎず、逢坂剛の特別な愛好者以外は読む必要はない。


 このところ仕事が忙しく、丹念に本を読んでいる暇がない。医療関係の職場での「人事」「経理」「総務」「リスクマネージメンメン」などの業務に多くの課題が山積し、その解決のため以前にも増して多忙になっている。加えて、株式市場のチェックのあわただしさや、何よりも加齢が原因となって、根を詰めてものを書くことがどうにもしんどいのだ。ただ疲労感と消耗感と無力感を覚えるだけだ。
 きっちりした感想を書こうとすれば、対象となる本を再読三読する必要があるが、それもなかなか時間が許さない。加えて、さまざまの要因で疲弊しているだけでなく、机上に門前市をなしている読むべき多くの本に取りかかれない現状に圧迫感と焦燥感が押し寄せてくる。もはや従来のようなやり方ではこのブログを続けることは辛くなった。どうやら、右にするか左にするかの岐路に立ってしまったようだ。


 そうこう言いながらもKindleで、『戻り川心中』(連城三紀彦)、『ヴェニスの商人資本論』(岩井克人ちくま学芸文庫)、『新訳ヴェニスの商人』『新訳マクベス』(河合祥一郎訳、角川文庫)、青空文庫で『黒田如水』(吉川英治)を読み、またペーパーでは『信長/イノチガケ』(坂口安吾講談社文芸文庫)、『ポッコちゃん』(星新一新潮文庫)、『草の径』(松本清張、文春文庫)、『黒地の絵』(松本清張傑作短編集(二))、『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫、集英社新書)などをとりとめもなく読み散らしてきたが、今一つ、パソコンに向かって読書ノートを書き綴ろうという気力が起きないのはただのスランプからだろうか。


 ちなみに既に買い求め済みで、机上で列をなして読まれるのを待つ本たちとは、今併行して読みつつある『敗者のゲーム』(チャールズ・エリス)や『ピーター・リンチの株で勝つ』(ピーター・リンチ)、『大震災に後で人生について語るということ』(橘 玲)の3冊を始め、『科学は大災害を予測できるか』(フロリアン・ディアク)、『マーケットの魔術師』(ジャック・D・シュワッガー)、『タックスヘイヴン』(橘 玲)、『株で冨を築くバフェットの法則』(ロバート・G・ハグストローム)、『プラハ、1942年』(ローラン・ビネ)、『入門経済学 第3版』(伊藤元重)、『経済システムの比較制度分析』(青木昌彦)、『禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン』(ベノワ・B・マンデルブロ)、『ファスト&スロー』(ダニエル・カーネマン)などなど。


 

「米中対決ー見えない戦争」ドルー・チャップマン(奥村章子訳、ハヤカワ文庫、'14.4.25)―劇画?

ふと立ち寄った小さな書店で、パラパラめくって面白そうなので買って読んでみた。
 この作品は、フレデリック・フォーサイストム・クランシーの系譜に連なる作品である。ここに「ゴルゴ13」も含めてもいいかもしれない。
 現今の世界情勢で思いつきそうな事件の羅列で作った、いかにもありそうなストーリーである。しかし、事件の真相の掘り下げや人物の複雑な性格描写はなく、筆者の考える小説の範疇には入らないが、ライト・ノベルあるいは映画の台本と思えばそれなりに読ませる。事実、ストーリーの展開に引きずられて、分厚い本(571頁もある)だが一気に読み終えた。


 国家がハッカーを使って電力施設などへのサイバー攻撃を行う、グーグルという巨大な検索エンジンGPSシステムをダウンさせる、また金盾という中国が構築しているインターネット検閲システム(グレート・ファイアーウォール)を無効にさせる、中国が保有する米国国債をひそかに大量に売却する、webサイトにニセ情報を流して相手国を混乱させる、こういった本作品にでてくる様々な手法は、みなどこかで聞いたような話であり、オリジナリティという点ではやや首を傾げる。
 また、北朝鮮に旅客機を緊急着陸させた意図も不明のままだし、メッテルニヒという謎の人物が何を目的に、誰のために動いているのか遂に分らないままで不全感が残った。


 これ以上コメントするのは無駄で、特におすすめという作品ではない。それにしても、帯に書かれたコピー「現代の武器なき戦争を描く衝撃の巨編」とはいかにも凄い。
 

「あなたに似た人 新訳版1」田口俊樹訳(ハヤカワ文庫、'13.5.10)―芳醇なる味わい

以前、田村隆一の訳で読んだ記憶があるが、とりわけ印象に残っているのは何といっても<南から来た男>である。(ロアルド・ダールの他の作品では、『キス・キス』の中の、ヒトラーの生誕を扱った<誕生と破局も強烈な印象が残っている。)


 あらためてじっくり読み、異次元のレベルにある作品群の芳醇なワインのような味わいを楽しんだ。(単なる比喩ではない。ワイン―特にボルドーメドックの赤ワインこそ、現在、筆者の最も愛する飲み物なのである。このワインは、冒頭の作品<味>の重要な小道具となっているのだ。)
 イメージ喚起力に富んだ文章、すみずみまで神経が行き届き、皮肉と風刺そして企みに満ちた、他の追随を許さぬ完璧なテクニックを駆使した各作品の出来映えにはほとほと舌を巻く。読みつつ、まるで作者の思うがままに手玉に取られていることが分かる。
 ”訳者あとがき”で訳者の田口俊樹は、『キス・キス』の開高健の”あとがき”の「残酷で、皮肉で、うすら冷たく、透明で、シニカルな世界」というダール評を引用しているが、もしこれに付け加えるとすれば「妄想的」(<プールでひと泳ぎ><ギャロッピング・フォックスリー><毒><願い>など。)、そして「射幸心(ギャンブリング・スピリット)」(<味><南から来た男><プールでひと泳ぎ>など)であろう。


 一度目はストーリーを追って、二度目は文章の隅々まで味わって読んだ。筋書きは分かっているのに、少しも興味を殺がれることがない。匠を尽くした逸品と評していい作品のいくつかを見てみよう。


<味>射幸心が押さえられない人間の危うい本性と、それにつけ込むスノッブが詐欺漢だったという話。何食わぬ顔でクラレット(ボルドー産赤ワイン)の産地ブドウ園当てに挑むグルメ男、リチャード・プラットの鉄面皮ぶりを描く筆の冴え!
<おとなしい凶器>これ以上はないというブラックユーモアの極致。それにしてもメアリー・マロニーに見る女性の悪趣味と怖ろしさ(?)。
<南からきた男>冒頭、何気ない気怠い夏のプールサイドの描写から始まり、アメリカ海軍の練習生が煙草とライターを持ちだす場面から、一転して危険な賭けへと話が急展開する。そのシチュエーションの運びの巧妙さにはあらためて感嘆する。そして結末の残酷な怖ろしさ!この物語もやはり人間の本性に根深く巣食うギャンブリング・スピリットが決め手となっている。
 以上の作品は、いずれも記述者、<味>では”私”、<おとなしい凶器>では”メアリー”、<南から来た男>では”私”の視点と心理から描かれている。他の登場人物(<味>の晩餐会の主催者マイク夫妻とグルメ男のプラット、<おとなしい凶器>のメアリーの夫や警官たち、<南から来た男>の訓練生の若者とカルロス)の人間像は、彼らの(心理描写ではなく)会話や表情、動作によって造形される。登場人物の行動様式はやや思わせぶりの気味があり、また(訳者解説にもあるように)適度にカリカチュア化されている。
<プールサイドでひと泳ぎ>極限状況下で、自分の見たいことが妄想にまで高まってしまい、その妄想で現実の世界と人間を解釈してしまった男の悲喜劇。彼が妄想を逞しくした原因の根底には、やはり人間の隠された痼疾であるギャンブリング・スピリットがある。
<ギャロッピング・フォックスリー>学生時代のトラウマが嵩じて妄想に捉われた男に訪れた皮肉な結末。
<皮膚>元刺青師の零落した老人の背中に彫られた稀少な刺青が哀れで残酷な結末を招く。
<毒>錯覚が妄想に高まり、自縄自縛に陥る主人公。結末部分では、人間の恩知らずの本性が見事にえぐり出される。
<首>上流階級の人士の心理的なさや当てが、やや戯画的に描かれている。人物像を見事に書き分ける巧みな文章。ヘンリー・ムーアの彫刻と高慢な卿夫人の首を天秤にかけて秘かな愉悦にひたるバジル・タートン卿の端倪すべからざる心理のあやが面白い。


 ダールの日常生活というか生活の実像については、パトリシア・ハイスミスの項でも紹介した、写真家の南川三治郎『推理作家の発想工房』文藝春秋社、1985.9.1)が興味深く貴重な資料となる。この本では、ダールが「女優でもある夫人パトリシア・ニールと3人の子供と住み」と書いてあるが、夫人とは1983年に離婚している。取材後記で南川は、1982年11月から1984年の11月まで7回の取材をしたとあるから、ダールの取材が行われたは1982年頃なのであろうか。
 自宅から100メートル離れている小さな仕事場の内外が撮影されているが、その(バラックのような)質素なたたずまいの仕事場で、数々の傑作が書かれたのだと思うと一段と興趣が増す。

「経済学の犯罪」佐伯啓思著(講談社現代新書、'12.8.20)−「セイの法則」について考える

本書を通底している著者の一貫した態度は、資産バブル崩壊後、デフレに陥っていた日本でとられた、本来インフレ対策であるはずの「新自由主義政策」(小泉構造改革など)への徹底した批判、嫌悪である。
 著者の考え方は、本書でも引用されているように、カール・ポランニーに負うところが多いように思われる。またセイの法則が「構造改革」の根底にあるとする捉え方も、セイの法則リカード以来経済理論を災いし続けたとする森嶋通夫の『思想としての近代経済学』が先鞭をつけている。いずれにしても目新しい考えではないが、巧みな構成の下、随所に確かで新鮮な目配りがあって、昨今のグローバル経済と過剰性の批判へと論旨を導いていく練達の手法は、一気に読みとおす魅力があって、さまざま教えられるところの多い本であった。


 ついでに言うと、「セイの法則」についてはケインズが『一般理論』(第1編序論、第2章)において「供給はそれみずからの需要を創り出す」としたフレーズで紹介し、古典派経済理論への批判のツボとしているが、セイのもともとの言葉は、例えば「全ての国において、生産者の数が多くなればなるほど、そして生産が増えれば増えるほど、販路はよりたやすく、多様で広大なものになる」(『政治経済学概論』第1巻”冨の生産”15章”生産物の販路”)というような表現であり、これらをケインズが上記のように言い換えたものである。



 森嶋は前掲書で「現実の経済ではセイ法則が成立しない。需要が供給より少ない(多い)場合には、供給が減らされ(増され)、供給が需要に適応するのである。すなわちセイ法則の逆(私はそれを「反セイ法則」と呼ぶ)が成立する。」と述べ、終章で「本書ではリカードに始まり、ケインズの出現で終わるセイ法則時代を取り扱った。」として、セイの法則がどのように害毒をまき散らすことになったかを述べている。
 だが、ケインズによって葬られたはずの「セイの法則」が、日本の「構造改革」を始めとして、どうやら(マルクスの『共産党宣言』の)幽霊のように今でも世界経済の混沌の中をさまよっているようだ。


 また、セイのいわゆる「販路の理論」は多面的な理解を許し、シュムペーターなどは、恐慌理論と結びつけて論じている。即ち、セイの販路の理論によれば「一般的な過剰生産は存在しえないし、生産から経済的均衡の基礎的な撹乱は決して発生しないから、従って恐慌の原因はただ生産の不当な比例すなわち一財の相対的過剰生産にのみ存しうる。」(『経済学史』269頁、岩波文庫)のである。


 第1章<失われた二〇年・・構造改革はなぜ失敗したあのか>で先ず著者は、日本は1990年代以降、ずっと実質成長率が名目成長率を上回る、つまり平均物価水準が低落しているという長期にわたるデフレ経済が「構造改革」の失敗であったと筆誅を加える。この間、賃金も長期的に下落し、ジニ係数も1996年あたりから上昇傾向にあると指摘する。
(ご存知のように、ジニ係数とは、貧富の格差を測る指標であり、0〜1までの分布で、0が平等で、1に近づくほど不平等となる。)
 ただこうした指標とは逆に、日本経済は2002年〜2007年長期景気回復傾向にあった事実を指摘し、これは、一つには大企業の賃金抑制(非正規雇用の増大)の効果であり、二つには輸出の貢献(具体的にはアメリカと中国の成長のおかげ)によるものであり、これらの傾向はたまたま小泉首相の在任期間と重なったため「構造改革」の成果と宣伝されるが、決してそうではないと分析する。著者は「消費需要は伸びず、企業投資も伸びず、デフレ経済にあって、しかも好景気などと言えるのであろうか。確かに何かおかしいのである。」(12頁)と述べる。


 また著者は、日本の緊急問題として、財政問題と、この十数年のデフレや雇用不安を挙げ、後者の方がより深刻、より緊急の課題と考える。そして、どうして日本は長期にわたるデフレ・雇用不安に陥ったかの理由を示したうえ、「構造改革」を長期的停滞の原因として、その基になった<新自由主義イデオロギー>の教義の三つの特徴を示す。
1、1980年代のアメリカとイギリスで採用された考え方だが、この両国はともにインフレが進行し、産業競争力が低下していたが、日本はバブル崩壊後デフレに向かっていた。新自由主義は本来インフレ対策であり、デフレに陥っている経済に対しては明らかにマイナスに作用する。
2、構造改革論の考え方に一つの前提が隠されている。それがまさに<セイの法則>なのである。モノの市場で需給ギャップはないという立場からは、デフレはもっぱら日銀の金融政策に関する金融現象(失敗)としか説明できない。しかし、もしデフレが総需要と総供給のギャップによって生み出されているとすれば、超金融緩和はほとんどデフレ対策にはならない。
3、生産要素(労働、資本、土地又は資源)は市場化に制約がかかるところに特質があるのだが、「構造改革」の重要な意味は、市場化困難な生産要素まで市場競争にさらしてしまった点である。なぜなら、生産物の市場においては、もはや十分な利益を挙げることができなくなってしまったから。→グローバルな価格競争が原因である。
 この辺は、ポランニーの考えによっている。ポランニーは、労働、土地、貨幣は産業に基本的な要因であり、これらが商品でないことは明白であるが、にもかかわらず、これらを商品視する擬制があるとする。そしてそのような擬制を許す市場メカニズムを厳しく糾弾している。(『経済の文明史』第1章”自己調整市場と擬制商品”―ちくま学芸文庫


 第1章の説明だけで紙数を使い過ぎた。参考までに各章のタイトルだけを記しておく。是非直接本書を紐解かれることをお薦めしたい。得るところが多いのは勿論のこと、読み物としても実に面白いからである。
 第2章 グローバル資本主義の危機・・リーマン・ショックからEU危機へ
 第3章 変容する資本主義・・リスクを管理できない金融経済
 第4章 「経済学」の犯罪・・グローバル危機をもたらした市場中心主義
 第5章 アダム・スミスを再考する・・市場主義の源流にあるもの
 第6章 「国力」をめぐる経済学の争い・・金融グローバリズムをめぐって
 第7章 ケインズ経済学の真の意味・・「貨幣の経済学」へ向けて
 第8章 「貨幣」という過剰なるもの・・「希少性の経済」から「過剰性の経済」へ
 第9章 「脱成長主義」へ向けて・・現代文明の転換の試み